二十騎ヶ原と赤子沢
「甲斐のやまなみ」黒留袖

 今からおよそ五百年も前、上野の郷(三珠町)に甲斐源氏義清の一族で、
渡井源太清宗という武士がいました。
 清宗の子清貞は、大井の荘南条(増穂町)の、永居左衛門尉義遠の娘を奥方に迎え、
仲睦まじく暮らしておりました。

 やがて奥方は身ごもり、男のふたごを産みましたが、このことを恥じて
どうしたらいいか、南条の里からついて来ていた乳母にだけひそかに相談しました。
 その当時、ふたごを産むのは恥ずかしいこととされていました。
 「私にまかせてください。考えがあります」
 乳母はそう言って奥方を励まし、ふたごのうちの一人を、奥方の父の
義遠が建てた小室山下の沢の家にかくし、乳母が育てることにしました。
 このことは、父には乳母から話しましたが、夫の清貞には告げません
でした。
 上野のもとで育てられる子は、一朗丸という名がつけられたので、
小室山下の沢で乳母がかくし育てる子は、一郎次丸と名づけました。

ところがその翌年も、奥方はまた男のふたごを産んだのです。
いえ、翌年ばかりではありません。つぎの年もまたつぎの年も、男のふたごを産み、
十年間で十組のふたごを産んだのです。
 つまり奥方は、二十人の男子の母親となったわけですが、一郎次丸から
十朗次丸まで十人は、小室山下の沢の家にかくされ、乳母に育てられました。
 もちろん、このことを知っているのは、奥方と乳母、それに義遠の三人 だけでした。
 奥方が育てた一郎丸から十朗丸までの十人は元気に育ち、下の沢の家で
かくし育てられた一郎次丸から十朗次丸までの十人も、義遠の保護ですこやかに育ちました。

 こうして二十六年の歳月が流れ、末っ子の十朗丸も十六歳になり、
おとなの仲間入りをする元服のとしになりました。
もう一つめでたいことに、祖父の義遠がこの年に七十七歳の喜寿を迎えたのです。
 その祝いの宴に招かれた清貞と奥方、それに十人の息子たちは、
南条の里へ出かけて行きました。
そして義遠の館に着くと、十人の若武者たちは、草原に馬を走らせ、
さっそく騎射を競いはじめました。
 義遠と奥方と三人で、頼もしげにこれを見ていた清貞は、
 「私は、甲斐源氏一族のなかでも、一番のしあわせ者だ」と、
 うれしそうにつぶやいたあとで、
 「欲をいえば、この息子たちに劣らぬ男子がもう十人いたならば、
もっともっと頼もしいであろうに」
 と、ひとりごとのようにそう言って奥方を見ました。
 すると
 「それならば、あと十人の若武者たちをお目にかけましょうか」
 とほほえんだ奥方は、父の義遠と目を見合わせました。
そして、けげんそうな清貞の顔を見ながら、
 「あなたさまの血筋を引いた十人の男子がいるのです」
 そういって奥方は、いままでのいきさつをつつみかくさず清貞に
話しました。
 これを聞いた清貞は、喜んだり驚いたりしましたが改めて父子対面 の
日を定め、その日はここで騎射の会を開くことにしました。

 いよいよ約束の日。上野の十人兄弟は馬にまたがり、装いも新しく
南条の草原へ出かけていきました。
 一方、かくれ家で育てられた十人も、負けず劣らずのいでたちで出陣し、
二十人の若武者たちは、勇ましく騎射を競いました。

 こうして父子兄弟の対面を無事すませた清貞は、そのあともわが子を
率いて、この地にときどき遊んだので、ここを「二十騎ヶ原」と呼ぶようになりました。

 なお、赤子のかくれ家であったところを「赤子沢」、
二十頭の馬を引き入れたところが「馬門(まかど)」、
長者の屋敷跡は、「殿原(とのはら)」と呼ばれ、
富士川町
(旧:増穂町)にはその場所と地名が残っています。



「甲斐のやまなみ」訪問着

 ずっと昔、まわりを高い山々に囲まれた甲斐の国は、一面 広くて深い湖でした。
その水辺に住む人々は、せまい土地を耕して、貧しい生活をしていました。
 この湖が引いて、広い土地に住めたらなぁ---
人々はそんな夢のようなことを考えては、溜息をつくのでした。

 そんなとき大和(奈良県)では、神様たちが、甲斐の湖を切り開いて、
広い土地にする相談をしましたが、 とてもそんなことはできないとう意見が強く、
みんな諦めかけていました。

 するとそのとき
 「甲斐の湖を、私が切り開きましょう」
 ずっとだまっていた向山土本毘古王(むこうやまともひこおう)が、
きっと頭を上げて神様たちを見回しました。
 「どのようにして切り開くのですか?」神様たちが聞くと、
 「まあ、私におまかせください」
 そう言って王は、多くの家来を従え、山深い甲斐の国へ出かけて行きました。

そして、着いた曽根の丘から湖を眺めました。
 「こんな大きい湖の、どこを切り開くのですか?」と言う家来の問いには答えないで、王は
 「皆の者、すぐに筏(いかだ)を組め」そう命じました。
 家来たちは梨の木を切って、筏を作って湖面に浮かべました。その筏に乗った王の一行は、
 あちらこちらと切り開く口を探しまわりましたが、なかなか良い場所がみつかりません。

 ある朝、曽根の山々はにわかに黒雲に覆われ、湖の向こうの八ヶ岳まで
濃い霧に包まれ、視界がさえぎられてしまいました。
 「筏を出せ!」きびしい顔で命令する王に
 「危険ですからおやめください」と、侍女(じじょ)までが反対しました。
 「今日はきっと何かが起こる。私の心にお告げがあった。筏を出すのだ!」
と王は再び大声で命令したので、王や家来を乗せた筏は、湖の彼方に消えていきました。

 「あれは何だ!?」
  家来の一人が指さす方から、渦を巻きながら怪物がこちらに向かってきます。
そしてあれよあれよという間に、王の乗った筏をぐんぐん引きはじめたのです。
 「これこそお告げのあった大亀だ!」と王は叫びました。  
 大亀に引かれた筏は、湖の南に進み、一時間もすると、目の前に大きな二つの
山が重なり合った谷間に筏を引き込んで、大亀の姿はどこへともなく消えてしまいました。

 やがて大粒の雨が降りはじめ、風が筏を揺さぶって、筏は岸に着きました。
 「ここだ!湖を切り開くのはここだ!」
 王は興奮して叫び、家来たちも「おうー!」と声をあげて喜び合いました。
 そうして岸辺に近い天戸の大地に仮御殿が建てられ、工事がはじまりました。
一つ向こうの小高い丘には、水位をながめる国見御殿も建てられました。

 やがて甲斐の湖は、水が引けて広い肥沃の土地に変わり、人々もそこに移り住んで、
新しい甲斐の国が生まれました。

 いまも禹の瀬近くには、天戸と国見平という地区があって、
土本毘古王は富士川町
(旧:鰍沢町)鬼島の地にまつられています。


-文献 ふるさとの風物より :編集・山梨県:発行・山梨日々新聞社:-

きものと帯 山京
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